とき:7/17㈮~7/20㈪まで
今年もこの季節になりました
【”叶や好み”の琉球展】
南風原の「工房かざくるま:宮里 由美子」さんをお招きして開催いたします
今回のテーマは「南風原の織物たち」
私どもの好きな絣もの「琉球絣」、そして「南風原花織」をご紹介いたします
「琉球絣」も工房も柄も素材も様々
大城康四郎織物工房さんの草木染のものや丸正織物工房さん・赤嶺織り工房さんの「透綾紬(すきやつむぎ)」に夏の定番「壁上布」などなどたくさんご用意いたします
ほかにも紅型で一押し!
「知念紅型研究所」知念 冬馬さん!
玉那覇 有勝さんに城間 栄市さんも!
昨年来てくださった「和宇慶むつみ」さんのお品も!
今回来てくださる「宮里 由美子」さんには”フリートーク”的なお話しもしていただく予定です
「琉球かすり会館」にて講師もされていたこともあってマニアックなお話しが効けるかも…
7/17㈮・18㈯・19㈰・20㈪の4日間限定開催ですのでぜひお時間作ってお越しくださいませ!
南風原の織物の歴史
織物は、古くから人間の手で考え出された貴重な技術の一つです
自然の中から見つけ出した食物繊維や動物繊維、またはさまざまな染料や顔料を用いて工夫を重ねて、身につける衣類や生活に必要な「布」を生み出してきました
「織物」や「布」は私たち人間の生活の中で無くてはならない大事なものです
7世紀頃に描かれたインドのアジャンタ洞窟の壁画に、絣織物らしき布を身にまとっている人々の様子の絵が残っており、絣織物の技術はかなり古くからあったと思われます
やがて、その絣織物の技術がアジアの国々をはじめ世界の各地に伝播(でんぱ)していったと考えられています
絣織物の技術は特にアジアの地域に定着し、各地域の独自の模様などが生み出されてきました
沖縄南風原(はえばる)の織物は、14〜15世紀にアジアから伝わった絣がルーツ
明治時代以降、沖縄県南風原村(現・南風原町)において独自の技法が発展し、現在では県内最大の生産量を誇る「織物のまち」として知られています
・琉球王朝時代の織物
琉球王府時代になると、織物は沖縄の各地で盛んに織られるようになりました
特に、首里、那覇をはじめ、宮古・八重山や久米島の島々では王府に納める貢納布(こうのうふ)として織られていました
そのころの貢納布は、首里王府の絵師が描いた絣デザイン集の「御絵図帳(みえずちょう)」を基に、島の女性達が厳しい製造工程に従事して織物にしていました
この頃、絣デザインや染色技術の織物技術は高度に発達しました
・明治時代の南風原産地
王府時代に、一般の人たちが着用できる着物の柄は、無地か縞柄(しまがら)に限られていました
明治に入ってからは、商品として市場に出るようになり絣柄(かすりがら)の着用も許されました
その頃の織物産地は、那覇の小禄や泊、豊見城などが盛んでした
南風原では、これらの産地との交流を通して、しだいに技術が向上していきました
・大正・昭和の頃の南風原産地
南風原で織物の生産が本格的になったのは、大正から昭和のはじめのころです
沖縄県では、明治の頃から小禄や島尻の女子工業徒弟学校で多くの織り子を養成し、大正に入ると南風原でも村立女子補習学校で織物指導が行われていました
また、那覇の泊から絣織物の技術者が南風原に移り住み、地元の人達と技術の交流がさかんに行われました
大正3年、南風原の女子補習学校に、熊本県から金森市六(かなもりいちろく)氏が招かれ、主にヤシラミ花織、紗紋織(しゃもんおり)、絽織(ろおり)、ロートン織、八枚花織などの組織織を指導し、南風原産地に特筆すべき功績を残しました
南風原では、織物技術者が増えるにしたがい、いよいよ織物の産地として基盤を固めていきました
昭和5年(1930)には、織物検査を強化し品質の統一を図るとともに、原料購入の一括化、生産・販売を強化するため、南風原織物組合が結成されました
また、規模の大きな組合工場が照屋と本部に設立され、宮平には金森工場、山川には秋山工場と民間の工場も設立されて、県内最大の絣産地に発展しました
ところが、第二次世界大戦がおこり、織物資材の供給が止まると、織物工場も閉鎖されました
南風原は激戦地と化し、戦争によって多くの織物技術者と生産設備を失うことになったのです
・戦後の南風原産地
南風原産地は、戦争によって壊滅的な打撃を受けたにもかかわらず戦後まもない昭和24年(1949)ごろになると、織物産地として再びその息吹を取り戻し始めました
米軍の占領下で軍製品の中から糸や染料などさまざまな織物材料をかき集め、また、高機(たかはた)や織物道具を復元し、織物生産の基盤づくりに着手しました。船舶用のロープや靴下までも解いて糸にしたり、カーボン紙を集めて染料にするなど、知恵と工夫を重ねました
織物の産地として復興した南風原では、生産を強化するため、原材料の一括購入、販路の拡大に努めました
また、道具や技法にも工夫が加えられたほか、電動機械などを積極的に購入しました
1972年の本土復帰を境にして、沖縄の工芸品が全国に知られるようになり、南風原の織物も生産が増えていきました
手仕事の伝統技術に対する一般の人たちの理解も高まりつつあり、このため、南風原産地では、人々の好みにあったデザインの工夫や品質の研究をしながら、生産の強化を図ってきました
1978年に大城カメさん、1989年に大城廣四郎さんが、現代の名工にも選ばれました。
最近では伝統的な技術を駆使して現代アートの感覚で絣織物を生み出したり、パソコンを使ってデザインするなど若者の活躍が目立つようになってきました
・大正時代の技術発展
明治の頃から母から娘へと伝承されてきた技術に加え、1914年(大正3年)に村立女子補修学校が設立されました
熊本県から招かれた金森市六氏の指導などにより、それまでの技術と合わさって「花織(はなうい)」や「斜文織(しゃもんおり)」などの南風原独自の紋織技法が確立されました
・産地としての基盤確
1930年(昭和5年)には、品質統一と生産・販売の強化を目的として南風原織物組合が結成されました。規模の大きな工場が各地に設立され、沖縄県内最大の絣産地としての基盤を固めました
・沖縄戦からの復興
第二次世界大戦によって織物資材の供給が止まり、南風原は激戦地と化して工場も閉鎖されました
しかし戦後、生き残った人々が貧窮の中からあらゆる材料をかき集め、生産の再興に尽力しました。現代の展開1970年代以降、伝統的な「琉球絣」に加え、「南風原花織」の復興も進みました。2017年には南風原花織が経済産業大臣指定の「伝統的工芸品」に指定され、現代のニーズに合わせた製品づくりや後継者育成が続けられています
琉球かすりの歴史
遠くインドに源を発し、東南アジア各地に広がった絣が、琉球王府の大交易時代の波に乗って、沖縄に入ったのが14~15世紀ごろ。それ以後、中国・日本や東南アジアの影響を受けながらも、琉球の気候・風土にマッチした独自の絣が沖縄各地でつくられ、その絣が、海を越え、薩摩絣、久留米絣、米沢琉球絣、伊予絣など日本の絣のルーツとなりました。
琉球王府時代から絣の主産地として知られた南風原は、たえまぬ技術導入・改良と職人たちの努力を、営々と積み重ね、現在では「琉球かすり」のほとんどが南風原町でつくられています。これからも「琉球かすりの里」として、祖先から受け継いだ伝統と時代にマッチした感覚で、永く愛される絣をつくり続けていきます。
・琉球かすりの特徴
琉球かすりの大きな特徴は、およそ600種という多彩な図柄。これら爽やかな涼感をさそう幾何学模様の図柄は、琉球王府時代から伝わる「御絵図帳」をもとに、職人たちが現代の感覚を取り入れて、オリジナルを作り上げます
この図柄をもとに、糸を染め上げる時、少しずつ束ねた糸を計算された間隔で、模様の部分を1カ所ずつ手括りで締め上げていくという大変手間のかかる方法で、独特の絣模様をつくります
織は、緯糸を経糸の間に手投げ杼で織っていく昔ながらの技法で、丹念に織り上げていきます
琉球絣の信頼の証
安心と確かな品質として、本場で織られた琉球絣にはこの証紙が貼付されています
南風原花織の歴史
南風原町では、明治の頃から花織の技法を母から娘へ伝承した形跡があり、現在も改良されながら織り続けられています
また古老からの聞き取り調査で、明治後期に織られた花織り手拭を出征する兵士へ贈り、持ち帰ったその手拭を大正初期に使用していたといいます
その後、大正3年4月に南風原村立女子補修学校が設立され、たくさんの村内婦女子が花織、斜文織などを収得し、その技術は先代から伝わる花織の技術も手伝って、喜屋武八織、照屋花織など独自の花織、浮織の技法を確立しました
戦後は、生き残った人たちが貧窮生活の中からあらゆる材料をかき集め、再び織物の生産に励みました
織物生産の技術が、彼らを支えたのは言うまでもありません。現在もその技術は受け継がれ、自分達の伝統的な技法と柄を守ろうと、意欲的な生産を続けています
・南風原花織の特徴
南風原花織の染色の特徴は、県内で採取される琉球藍、福木、テカチ染め等の植物染料を用いることです
化学染料については、絹は酸性染料、木綿はスレン染料、反応染料、直接染料を用いています
南風原花織には、ヤシラミ花織、クワアンクワアン織り、タッチリーなど、産地にしか存在しない名称がありその模様は花のように美しく図柄に立体感がでて華やかな印象を受けます
また、歌い継がれている歌に、「んじゃりがなわかちぬぬなするいなぐ、花ぬヤシラミーん織いどしゅうる」(どんなにもつれた糸でも、ときほどいて反物を作る女が花のヤシラミーもおれるのだ)というものがあります
花織のヤシラミーが作れるには、どんなにもつれた糸でもときほぐすくらいの忍耐と辛抱強さを備えなければならないという教訓歌です
・南風原花織の信頼の証
安心と確かな品質として、本場で織られた南風原花織りには、この証紙が貼付されています
※琉球絣事業協同組合HPより引用